優和スタッフブログ

地域情報

城南宮

平安時代の宮中の歌会遊びを再現した「曲水の宴」が11月3日、
京都市伏見区の城南宮で行われます。
曲水の宴は古代に中国から伝わった宮中行事で、庭園を流れる
小川に沿って歌人が座り、水鳥をかたどった台に載せた酒杯が
流れてくるまでに、即興で和歌を詠み、杯を飲み干す遊びです。
琴の音が鳴る中、色鮮やかな狩衣と小袿(こうちぎ)をまとった
男女7人が短冊に筆を走らせ、酒杯を口にしていきます。
城南宮では春と秋の2回、曲水の宴を無料公開しており、沢山の
見物客で賑わいます。
それ以外の時は、源氏物語にちなんだ植物が数多く植えられて
いる神苑が有料で公開されています。
普段は人がそれほど多くなく、ゆっくりと様々な植物を楽しむ事が
できるのでおすすめですよ。
京都本部 今尾


松山の紹介(その8)

民芸伊予かすり会館
 「花木槿(はなむくげ)家ある限り機(はた)の音」
 明治28年10月、正岡子規が今出の村上霽月(せいげつ)を訪ねた折に詠んだ句で当時、今出で盛んに絣が織られていた様子が窺える。
 日本三大絣と称されるのが、福岡の久留米絣、広島の備後絣、そして愛媛の伊予絣。
 伊予絣が産み出されるためには二人の力が必要でした。
 一人は菊屋新助(1773~1835)。当時の生産効率が悪い機に改良を加え、伊予縞の生産を向上できる機を作り上げました。新助が考案した高機は鍵谷カナにより、伊予絣の生産に使われることになります。
 この伊予絣を生み出したのが、垣生(はぶ)村今出(いまづ、現・松山市西垣生町)の鍵谷カナ(1782~1864)なる人物。
 幼き頃より、機織る母を見て育ち、常々、綺麗な模様の着物を織りたいと願っていたカナは、ある日、農家の藁屋根の葺き替えを見ているうち、押し竹の縄で縛られていた部分が白く、他の部分が茶色になっている様に着想を得て、絣の手法を考案したと伝えられる。
 明治二十九年には生産量が百万反を超え、三十七年には全国シェアの四分の一を占めるまでになる。その後は、日露戦争後の産業界全般の不振により生産が減るものの、第一次大戦後は好景気となり、大正十年から昭和四年頃までは二百万反を超えて、日本一の座を占めた。
 伊予絣は、高級品の久留米絣に対して、廉価(れんか)な農作業着として重宝され、関東、東北、北海道などへと販路を広げていった。絣糸を藍で染めると糸の強度が増すばかりでなく、その独特の匂いにより防虫効果を発揮、また畑仕事の際マムシが寄って来ないともいわれた。
 しかしながら、隆盛を誇った伊予絣も、戦時中の経済統制や、戦後は農村部でも洋装が主流になり、生産は徐々に減っていった。 
 松山市久万ノ台にある、白壁と高煙突が印象的な「民芸伊予かすり会館」では、伊予絣の様々な製品が販売されるほか、かつて製織に使われた道具類や製品の数々が一堂に展示されている。そして何よりの魅力は、現在県内ではここでしか行われていない、藍染めから手織りまでの工程をつぶさに見学できることです。
参考文献 『日本の絣文化史』福井貞子著、『伊予絣』河野正信著
(参考資料 四国電力?衄?行『ライト&ライフ2001年10月号』)
 なお、隣接地(同じ敷地内)には、平成8年にオープンした久万の台温泉もあります。
ちなみに特徴は、・泉質:含弱放射能ナトリウム塩化泉源、・効能:神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 運動まひ、・深度:1,000mと紹介されています。


平安京

先日、名古屋在住の方と話をしている中で、京都に来られたときに訪ねる場所を伺いました。その中に「朱雀門」というお答えが。
「朱雀門」とは平安宮(大内裏、京ではありません)の正門で、現在のJR二条駅前、千本二条の辺りなのですが、現存しません。桓武天皇の造営した平安京は都の中心が今よりもう少し西、現在の千本通が中心であったので、当時の施設名と現在地を結びつけられる人は地元民でもかなり少ないと思います。
平安京を歩こう
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heian/index.html
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heian/heian02.html
話は変わりますが今年は源氏物語が記録に登場して千年になる年だそうです。
平安絵巻の今様を訪ね歩き、「もののあはれ」など感じるのもまた一興なのではないでしょうか?
源氏物語千年紀委員会
http://www.2008genji.jp/index.html
京都本部
二神


都心の湧水と亀2匹

昔、月の岬といわれたお月見の名所の亀塚公園(東京都港区三田4丁目)から、海側の第一京浜に降りる135階段(2008年6月10日のブログで写真紹介)は前面が開けていますが、階段の途中を御田八幡側に降りると神社の林の中に入ります。
御田八幡の階段下の池も、水枯れして湧水はもうないのかと諦めていたら、数日前通りかかったら、
水がどんどん流れており、亀二匹が、気持ち良さそうに打たせ水のごとく、水浴びをしている光景を目に
しました。

詳細はこちら


東京23区で一番長い階段は?

東京23区内にはいろいろな階段がありますが、「東京の階段」という本を見て、ひょっとすると
私の住む場所のすぐ近くにある亀塚公園の135段が東京一ではないかとの期待から、著者の松本泰生氏
のブログに問うたところ、世田谷区瀬田4丁目に130段以上の階段があるとのこと。
気になっていたので、6月7日(日)どちらが東京23区一の階段かを確認すべく世田谷区瀬田・岡本界隈
を散策してきました。 

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地名の由来

東京本部のある港区は 昭和22年3月15日、旧赤坂区、旧麻布区、旧芝区の3区が合併され、
今の「港区」が誕生しました。
合併にあたっては「今後のわが国の発展は貿易の振興にあるが、その素材とも言える東京港を抱合している」ことから「東港区」が候補にあがりました。
その後、「東港区」では「東京都東港区」のように、類似する音が重なるので、「東」の一時を除いて「港区」とすることになりました。
また「芝」の地名は15世紀後半の文献に登場するほど古く、海苔そだの柴の説、守護職「斯波」に」ちなんだ説、芝草からの説、河口のデルタの地形を示す説などがあり、名の由来は明らかではありません。
地名は調べてみると面白いですね。
                  東京本部  本多


松山の紹介(その7)

足立重信(あだちしげのぶ)の墓
(昭和26年11月27日県指定史跡に指定)
ロシア人墓地とは直線にして数十メートルの距離にある「来迎寺」に、足立重信の墓所がある。 
 川がある。
 重信川といい、河原がひろく、(中略)
  其源は、砥部十六谷の水流出で、水無月の頃も涸る事なし。尤も大河なり。
 と、『愛媛面影』に簡潔で要を得た文章が出ている。豊臣時代までは、伊予第一の川ということで、伊 予川とよばれていた。重信というのは、改修者の名である。日本の河川で人名がついているのは、こ の川だけではないか。
 (「街道をゆく」14・南伊予・西土佐の道 司馬遼太郎著)
愛媛県の県庁所在地・松山市を流れる1級河川・重信川。
 この川は昔、伊予川と呼ばれ、毎年雨の時期には堤防がない両岸から洪水があふれ、流域一帯の田畑や家屋が押し流され、暴れ川として恐れられていた。それが、重信川と呼ばれるようになった背景には、1人の普請奉行の偉業がある。足立重信である。
 重信は現地調査の結果、約8キロにわたって流路を改め、堤防を築くという大工事を施工した。
 足立重信(~1625)は、松山城主加藤嘉明の家老である。美濃国(現岐阜県)に生まれ、年少の頃から加藤嘉明に仕え、嘉明がその功労によって正木(現愛媛県伊予郡松前町)城主6万石に封ぜられると、重信も伊予国に来住した。慶長5(1600)年、関ヶ原の合戦後、20万石の大名となった嘉明は、勝山へ移転城築して、城下町を松山と改めた。重信は普請奉行の要職に就き、特に土木治水事業に精通し、伊予川及び石手川の改修などを指揮した。また、開墾の奨励や年貢率の設定なども手がけ、松山藩初期の財政基盤の整備、充実に手腕を発揮した。重信は、松山城の築城、城下町の建設に20数年間尽力したが、その完成をみないで寛永2(1625)年に逝去した。本人の遺言によって、松山城を望見できる城北の来迎寺境内に墳墓がつくられたという。
 四国最大の都市である松山市は、夏目漱石の「坊ちゃん」の舞台として、また、3000年の歴史を誇る日本最古の温泉「道後温泉」の町としても有名ですが、その松山市繁栄の基礎を築いたのが「足立重信」です。
 重信川流域の小学校では、総合学習の時間に彼の偉業を学ぶ時間を設け現在の生活の基盤をつくってくれた先人に感謝し、その熱い思いを未来に伝えていく大切な授業が今日も行われています。
 (松山市・愛媛県のHPより)
       松山本部 村上


保津川下り

今年は比較的桜の時期が短かったように思います。
これからの京都は暖かいを過ぎて「暑く」なり、我が家では例年5月の連休には半袖の衣類を引っ張り出しております。
そのような気候のこの時期、「保津川下り」などは如何でしょうか?
「保津川下り」は桂川の中流域である保津川を、亀岡から嵐山渡月橋手前まで約16キロ、船で下るのですが、この間急流の渓谷もあり、かなりスリルが楽しめます。
保津川を使った水運は古く長岡京造営の頃から行われていたようで、下って慶長年間、角倉了以が保津峡を開削し水路整備を行った事により盛んになったそうです。
(保津峡に人の手が加えられていたことは知りませんでした)
なお「保津」という名称は亀岡の出雲大神宮に祀られる三穂津姫命(ミホツヒメノミコト)に由来するとも言われています。
観光コースとしてはJR嵯峨駅からトロッコ列車で亀岡の手前、馬堀まで行き川下りで嵐山
渡月橋まで戻ってくる、というパターンが人気のようです。
保津川下り
http://www.hozugawakudari.jp/
丹波國一之宮 出雲大神宮
http://www.izumo-d.org/top.htm
嵯峨野観光鉄道
http://www.sagano-kanko.co.jp/timeline.html
京都本部
二神 幸彦


港区のこと

東京本部のある東京港区のことをちょっと調べてみました。
面積は20.34k?屐 /邑?207,275人(2007年12月1日) 人口密度は10,190人/k??
港区は坂が大変多い街と思って数えてみると名前のつく坂が85
蛇坂・鼠坂・狸坂・狸穴坂・牛鳴坂 と動物名前の坂
聖坂・天神坂・幽霊坂・於多福坂・鳥居坂・大黒坂・稲荷坂・安鎮坂・霊南坂
と神仏絡みの名前の坂
饂飩坂・笄坂・紺屋坂・植木坂・鉄砲坂・寄席坂 これは商売を表したのでしょうか。
南部坂・仙台坂・紀伊国坂・日向坂・日吉坂 昔の藩屋敷の名残でしょうか。
本社を港区においてある企業も多数ありました。
なかでもマスコミ関係は10社
民間放送のキー局の本社社屋は全て港区にありました。
きっとこれは東京タワーがあるからでしょう。
改めて住んでいる町を調べてみるのも面白いものですね。
外国の施設として
大使館76 領事館が4 
以前聞いた話ですが麻布警察の管轄には大使館の数と組事務所の数が同数とか。
治安の面では注意して生活しなければなりませんね。
                東京本部 本多


美味しいお店

先日、家の近くにある「ここみ」という和食のお店に初めて主人と行ってみました。町屋を改装したアットホームなお店で、お刺身や天ぷらなどがとってもおいしく大満足でした。わさびや、お塩、お酒などにもこだわっておられるようで、お店の方にお聞きしますと、「そういった点に気付いてもらえると、とても嬉しいです。とにかく美味しいものをお手頃な値段で食べて頂きたくって」と本当に嬉しそうにおっしゃっておられました。最近は食品業界の不祥事が相次いでいますが、やっぱり経営されている方の姿勢が一番大事なのだと改めて感じた日でした。そうしたお店が繁盛する世の中であってほしいものです。
京都本部 藤原


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