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松山の紹介(その11)

道後公園と湯築城跡
 道後公園(湯築城跡)は、道後温泉で有名な松山市道後地区にあり、地形は、直径約350mのほぼ円形状で、中央部は30m程度の高さの丘陵地となっています。公園全域が、中世伊予の守護河野氏の居城として、14世紀前半から16世紀後半にかけての250年間存続した城跡であり、堀や土塁など城の地割が当時の姿のままよく残っています。外周は湯築城の外堀で囲まれ、丘陵部を取り巻くように内堀が巡っています。
 場所は、松山城から東へ2km、JR松山駅から東へ3.5kmの距離に位置する県立都市公園です。
 この公園は、地元住民や観光客の散策や休息の場として利用されるほか、桜の名所として、多くの人が花見などに訪れます。公園の一角には松山市立子規記念博物館があり、正岡子規の俳句、短歌、小説、水彩画などのほか、松山と関わりの深い文化人などの資料が収集・展示されています。
 埋蔵文化財発掘調査を実施したところ、中世当時の湯築城の武家屋敷跡や土塀跡、道、排水溝などの遺構や、陶磁器などの遺物が数多く出土しました。このため、武家屋敷や土塀の復元などを内容とする文化財を生かした公園として平成10年度~平成13年度にかけて整備を行い、平成14年4月、リニューアルオープンしました。
 また、同年9月愛媛県内で9番目の国指定の史跡「湯築城跡」となりました。
 湯築城は、河野氏(河野通盛)によって築かれたとされ、築城に関する文献は残っていませんが、古文書の中に、「興国三年(1342年)三月湯築城責」という記述があり、この時期にはすでに湯築城が存在していたと考えられています。
 その湯築城も、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の命によって伊予国に攻め入った小早川隆景により包囲され、河野通直は開城し、河野氏による伊予国の支配は終わりを告げました。河野氏の後、小早川隆景が湯築城城主となりましたが、1587年、隆景は筑前名島に転じ、湯築城には福島正則が入城しますが、まもなく府中の国分山城に移り、湯築城は廃城となりました。
 現在道後公園には、発掘調査に基づいて、武家屋敷の一部や土塀、排水路などが復元されています。
〈主な整備内容〉
武家屋敷2棟、門、土塀、内堀、内堀土塁、外堀土塁の一部、道路、排水溝等
(HP「えひめの土木(愛媛県土木部)」より)
        松山本部 村上


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