優和スタッフブログ

松山の紹介(その6)

「松山捕虜収容所とロシア人墓地」の歴史
明治37(1904)年2月10日に日本はロシアに宣戦布告し日露戦争勃発。
この1ケ月後に、ロシア兵捕虜と松山市民との歴史物語が始まる。
 宣戦布告から20日後の2月29日夕方、日本赤十字社から愛媛県日赤支部に「露国兵士患者数20余名、救疫の必要あるにつき県立病院の一部を借り受けた収容救護に支障あるか否か」の問い合わせの内容の電報が入る。
愛媛県日赤支部からその日の夜中、日本赤十字社宛に「受諾する」旨の返電を送信。
 その時のロシア兵患者とは、日本が宣戦布告する前日の2月9日午後、朝鮮の仁川沖で日本艦隊に撃沈されたロシア巡洋艦・ワリヤーグ号の22人の負傷兵たちであったという。
 宣戦布告前であったため、日本政府はこの兵士たちを捕虜とせず、「難破船救助民」と認定してその身柄を愛媛県の日本赤十字社支部で引き受けることを依頼してきた。
 松山が捕虜収容所の適地として日本で最初に選ばれた理由は、第一には前の日清戦争で、松山に日本で初めて清国兵士捕虜収容所が置かれた事にあったようである。
 その後3月19日、5月15日、6月10日、13日、・・・・と立て続けに送られ、百回以上、延べ6千余名の捕虜兵が松山に上陸している。
 松山捕虜収容所の当初の目的は、傷病兵を預かることであったが、傷病兵の付き添いで健康な将校も多数上陸。
 捕虜たちは、松山市民の「博愛の心(もてなしの心)」で外国から来た客人として取り扱われ、役務にも就かせず、温泉にも入れ、海水浴もさせ、学校の授業も参観させ、1里以内の自由行動も許されていた。将校の中には祖国から妻を呼び寄せて住むことまで許可された者もいた。
 元気になって帰国した兵士から、もしも捕虜になったならば「マツヤマ」と叫べとの言葉が伝えられることになったという。
 松山の捕虜収容所は負傷兵を対象として開設されており、重傷の負傷兵も沢山収容されていた。したがって、捕虜収容所の病院で祖国ロシアへ帰国することが叶わずして亡くなった兵士も多くいた。
 明治37年4月28日に第1号死亡者の墓ができて以来、98基の墓が城山の見える丘にロシア人墓地として建立される。その後、この墓地も荒れ放題であったが、昭和35(1960)年11月現在の地に移転整備される。
 その後、昭和58(1983)年ごろから、地元の勝山中学生徒会や老人会の手によって月1回の墓地清掃活動が続けられ、大切に保存されている。
 平成6(1994)年10月25日には「傷ついた兵士を残しては、自分一人では帰れない」と言って、ここ松山の地で明治38年9月に亡くなったボイスマン大佐の胸像が建立された。
日ソ(露)友好のかけ橋として
 (『愛媛、この百年』中川幸男著より抜粋
               優和 松山本部 村上


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