東京本部のある港区は 昭和22年3月15日、旧赤坂区、旧麻布区、旧芝区の3区が合併され、
今の「港区」が誕生しました。
合併にあたっては「今後のわが国の発展は貿易の振興にあるが、その素材とも言える東京港を抱合している」ことから「東港区」が候補にあがりました。
その後、「東港区」では「東京都東港区」のように、類似する音が重なるので、「東」の一時を除いて「港区」とすることになりました。
また「芝」の地名は15世紀後半の文献に登場するほど古く、海苔そだの柴の説、守護職「斯波」に」ちなんだ説、芝草からの説、河口のデルタの地形を示す説などがあり、名の由来は明らかではありません。
地名は調べてみると面白いですね。
東京本部 本多
足立重信(あだちしげのぶ)の墓
(昭和26年11月27日県指定史跡に指定)
ロシア人墓地とは直線にして数十メートルの距離にある「来迎寺」に、足立重信の墓所がある。
川がある。
重信川といい、河原がひろく、(中略)
其源は、砥部十六谷の水流出で、水無月の頃も涸る事なし。尤も大河なり。
と、『愛媛面影』に簡潔で要を得た文章が出ている。豊臣時代までは、伊予第一の川ということで、伊 予川とよばれていた。重信というのは、改修者の名である。日本の河川で人名がついているのは、こ の川だけではないか。
(「街道をゆく」14・南伊予・西土佐の道 司馬遼太郎著)
愛媛県の県庁所在地・松山市を流れる1級河川・重信川。
この川は昔、伊予川と呼ばれ、毎年雨の時期には堤防がない両岸から洪水があふれ、流域一帯の田畑や家屋が押し流され、暴れ川として恐れられていた。それが、重信川と呼ばれるようになった背景には、1人の普請奉行の偉業がある。足立重信である。
重信は現地調査の結果、約8キロにわたって流路を改め、堤防を築くという大工事を施工した。
足立重信(~1625)は、松山城主加藤嘉明の家老である。美濃国(現岐阜県)に生まれ、年少の頃から加藤嘉明に仕え、嘉明がその功労によって正木(現愛媛県伊予郡松前町)城主6万石に封ぜられると、重信も伊予国に来住した。慶長5(1600)年、関ヶ原の合戦後、20万石の大名となった嘉明は、勝山へ移転城築して、城下町を松山と改めた。重信は普請奉行の要職に就き、特に土木治水事業に精通し、伊予川及び石手川の改修などを指揮した。また、開墾の奨励や年貢率の設定なども手がけ、松山藩初期の財政基盤の整備、充実に手腕を発揮した。重信は、松山城の築城、城下町の建設に20数年間尽力したが、その完成をみないで寛永2(1625)年に逝去した。本人の遺言によって、松山城を望見できる城北の来迎寺境内に墳墓がつくられたという。
四国最大の都市である松山市は、夏目漱石の「坊ちゃん」の舞台として、また、3000年の歴史を誇る日本最古の温泉「道後温泉」の町としても有名ですが、その松山市繁栄の基礎を築いたのが「足立重信」です。
重信川流域の小学校では、総合学習の時間に彼の偉業を学ぶ時間を設け現在の生活の基盤をつくってくれた先人に感謝し、その熱い思いを未来に伝えていく大切な授業が今日も行われています。
(松山市・愛媛県のHPより)
松山本部 村上