民芸伊予かすり会館
「花木槿(はなむくげ)家ある限り機(はた)の音」
明治28年10月、正岡子規が今出の村上霽月(せいげつ)を訪ねた折に詠んだ句で当時、今出で盛んに絣が織られていた様子が窺える。
日本三大絣と称されるのが、福岡の久留米絣、広島の備後絣、そして愛媛の伊予絣。
伊予絣が産み出されるためには二人の力が必要でした。
一人は菊屋新助(1773~1835)。当時の生産効率が悪い機に改良を加え、伊予縞の生産を向上できる機を作り上げました。新助が考案した高機は鍵谷カナにより、伊予絣の生産に使われることになります。
この伊予絣を生み出したのが、垣生(はぶ)村今出(いまづ、現・松山市西垣生町)の鍵谷カナ(1782~1864)なる人物。
幼き頃より、機織る母を見て育ち、常々、綺麗な模様の着物を織りたいと願っていたカナは、ある日、農家の藁屋根の葺き替えを見ているうち、押し竹の縄で縛られていた部分が白く、他の部分が茶色になっている様に着想を得て、絣の手法を考案したと伝えられる。
明治二十九年には生産量が百万反を超え、三十七年には全国シェアの四分の一を占めるまでになる。その後は、日露戦争後の産業界全般の不振により生産が減るものの、第一次大戦後は好景気となり、大正十年から昭和四年頃までは二百万反を超えて、日本一の座を占めた。
伊予絣は、高級品の久留米絣に対して、廉価(れんか)な農作業着として重宝され、関東、東北、北海道などへと販路を広げていった。絣糸を藍で染めると糸の強度が増すばかりでなく、その独特の匂いにより防虫効果を発揮、また畑仕事の際マムシが寄って来ないともいわれた。
しかしながら、隆盛を誇った伊予絣も、戦時中の経済統制や、戦後は農村部でも洋装が主流になり、生産は徐々に減っていった。
松山市久万ノ台にある、白壁と高煙突が印象的な「民芸伊予かすり会館」では、伊予絣の様々な製品が販売されるほか、かつて製織に使われた道具類や製品の数々が一堂に展示されている。そして何よりの魅力は、現在県内ではここでしか行われていない、藍染めから手織りまでの工程をつぶさに見学できることです。
参考文献 『日本の絣文化史』福井貞子著、『伊予絣』河野正信著
(参考資料 四国電力?衄?行『ライト&ライフ2001年10月号』)
なお、隣接地(同じ敷地内)には、平成8年にオープンした久万の台温泉もあります。
ちなみに特徴は、・泉質:含弱放射能ナトリウム塩化泉源、・効能:神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 運動まひ、・深度:1,000mと紹介されています。